イエス
ふつう
Natalie Glasson 2011/8/29
今日は大きな愛を持って皆さんの下に来ました。ギフトではなく私自身の自然な表現としてその愛を差し上げましょう。
私はマスター・イエスです。
一個の魂として、私は何も軽蔑したり嫌ったりするものはありません。私の愛は何事にも誰に対しても強く、揺らぐことはありません。いつも愛として存在しています。愛を選択する時、私の選択は現実を活性化する創造主の愛になり、その時、私自身に集中でき、周囲のエネルギーそのものに焦点を合わせることができます。何かを嫌うなら、多くのライトワーカーがこの言葉に拘り悩んでいるような “普通”の話になります。私自身、地球の何回もの生涯の間、この言葉に苦しみました。 “普通”の という言葉は、日常何気なく起ることについて言っています。通常の、とか標準、普通、ありふれたという意味です。世代が進む中で、 “普通” という言葉は社会の中で極めて重要な意味を持ちました。殆どの人たちは普通でいようと躍起になり、他の人たちと同じようにしていようと、同じものを持ち、同じ経験をしようとします。 “普通” は、完全であることを意味する言葉と同じようになりましたが、それも思考によってそうなったのです。
この問題をお話しする時、私の生徒さんたちへの質問はいつものように、「なぜ普通でいたいのですか、なぜ標準でいたいのですか?」です。ある人たちは、全員がやっているように自分がやっている時には、自分は大丈夫だと感じると言います。目立ちたくない、他の人たちから認められ受容れられたい、というのです。他の生徒さんは、他の人と同じようにしている時が、全員と一緒でいられる感じがする、というのです。つまり、グループの一員でいたいのです。普通でいればあれやこれやと考える必要はない、という人もいます。創造主と一体になりたい言う生徒さんが時々いますが、地球では社会の一員でいられれば、それと同じような感じだと思うというのです。皆さんは、普通でないと仮定する場合、一線を越えて自分自身一人になった時のこと指し、それは不安だということを認めているのです。
殆どの魂たちは認められ受容れられたい、他の人のそばにいて一緒でいたい、そうすれば安心感がある、そう思っているのですが、それはよく分かります。また、自己発見や自己表現を怖れる思いは非常に強くパワフルで、判断を曇らせるということもまた事実です。本質的に私たちは創造主の魂の側面を持ち、大きなパズルの一片なのです。だから実際には、「普通」を追求するということは、パズルのピースであるあなたがどこに収まるのかの探求なのです。しかしそれは、地球上での話ではなく、内面と創造主の魂の中に求めていくことです。ピースが自分が帰る場所や休む所、安らげる所が見つからない場合、それはまた怖れにもなります。しかし、私たち自身の場所は皆創造主のエネルギーの中にあります。必ずしも場所ではなく、むしろ創造主と完全に繋がることを意味します。恐怖や知らないことは、それほど人間にとって乗越えるべき強力なハードルです。恐怖は、創造主との信頼関係と繋がりが途切れた状態であるので、理不尽でもあり、同時に創造の一つでもあることを理解しなければなりません。 “普通” に引き付けられるのは、他の人たちや創造主と一緒になりたいというニーズであることは分かります。しかし、その必要性を感じない人たちは、帰属意識(欲求)は他の人ではなく自分に折り合う問題だということを知っています。日常世界で創造主との繋がりが完全なものになる時、他の人との繋がりに対する欲求は雲散霧消し、内側で成長する満足感を味わうことができます。
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